栃木県 二宮町 せんだん幼稚園 理事長コラム

戻る

「天国の階段」
 30数年前のイギリスのロックグループ[レッド・ツェッペリン]のヒツト曲に「天国への階段」/(stairway to heaven)という曲がある。70年前半の大学生にわかロックバンドの中で良く演奏されていた曲だ。50才前後の年代の方は結構知っているのではないだろうか・?。曲の内容は{天国への階段は風の中に横たわっている・・}といった調子で極めて難解。しかし、そのリリカルなボーカルと美しくそして時に激しいメロディーラインに皆が惹き付けられた名曲である。ある時、失恋で打ちひしがれていた女性がこの曲を偶然聴き、涙を流して再起を決心した、という話をラジオのトーク番組か何かで聞いたことがある。
 さて、誰もが今昔を問わず、信じようが信じまいが、もし本当にあるのであれば天国という世界へのあこがれや望みをもつと思う。もしも死んだ後、閻魔大王に会って地獄と天国の二者択一をせまられたとしたら、よもや地獄を望むものはいないであろう。
 仏教で説かれる天国とは、本来まだ迷いの中にある六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)のうちの一つの世界 = [天]を表すものであるが、社会通念のイメージとしては「天国」という言葉にはキリスト教的救いの世界とか、もっと上の悟りの世界である浄土(仏様の住む世界)までも含めているようだ。そして、いわば、誰もが意識しようがしまいが、信じようが信じまいが、この[天国 = 浄土]を目指して生きているのである。
 実は当コラムの表題はツェッペリンの曲についてではなく、題材は言わずとしれた韓国ドラマ「天国の階段」である。土曜日の夕方TV放映されていたのでご覧になられた方も多いと思う。理事長コラムにも「ついに韓国ドラマが登場!!」という訳である。何故このドラマについて一筆書きたくなったかというと、単なる娯楽ドラマを超えた深い内容に少なからず感銘を受けたからである。{天国の階段を登る}、ということがどういうことなのか、その{階段}とは何なのか、ということが作者の意図として鋭く描かれている。
 他人の欲望と陰謀の中で自らの人生を踏みにじられ、ズタズタにされた人間が怒りと恨みの気持ちを持つのはしかたのないことである。さらに難病により死の宣告を受け、すべての希望を失った闇に苦しむ夜が明けた時、劇的な心境の変化が訪れる。自分に角膜を提供するために命を捧げた義兄の無償の愛の意味を知り、ついに自らの死の運命をも受け入れ、せめて限り在る時間を大切に精一杯生きようと決心する・・・。「今の私には、許せないものは何もありません」と、怒りや恨みを乗り越えて自分を地獄の淵に追いやった継母と妹の悪行を全て許し去るのである。そして、安らかに死を受け入れ、旅立って行く・・。その心境の変化に感銘を受ける。
 普通の人間ではとてもこのような心境には至れないかもしれない。ドラマだから・・と言ってしまえばそれまでであるが、ここで「天国の階段を登る」、ということに込められた意味は極めて示唆に富んでいる。それは怒りや恨みを背負っていては絶対に登れない、ということである。本来、天国とは死んでから行く世界だけではない。この世にはこの世で目指すべき天国がある。誰もが登りたいと思っていてもどうすれば登れるのか、そして登れなくしているあるものに気づく意味はとても大きい。
 [無償の愛]と[許すこと]、この二点が当ドラマの表題が最も意味するところであろう。
韓国ドラマのようにドラマティックではないが、私達も子育てを通して様々なドラマを演じながら生活している。子育てにおいても、この二点の意味することは大きい。