栃木県 二宮町 せんだん幼稚園 理事長コラム

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疎外感がキバを剥く(秋葉原無差別殺傷事件の根底)
 秋葉原事件の犯人の年代は奇しくも、神戸市須磨区の酒鬼薔薇事件、黒磯中教師刺殺事件などと同年代と聞く。それぞれの事件は内容は異なるが共通しているのは、自分中心で他者の命を非常に軽く見る感覚だ。さらに10年後の現高校生の世代でも学校裏サイトなるものが問題になっており、ここでも「死ね!!」とか、平気で他者を傷つけたり命を軽視する風潮が見られる。そのような自己中心で他者軽視の風潮の原因はいろいろ考えられるが、教育に携わる者の視点で見るとやはり、戦後の学校教育の流れに問題点があるように思えてならない。
 戦前の教育は個人よりも「家」「国家」「天皇」といった皆で構成したり、共通する「全体性」といったものに重きを置く教育であった。そうして、将来のある若者の命は赤紙一枚と引き替えに戦争(全体)の道具として露と消えることになった(!)。一転、戦後の教育はその反省から民主主義の名の下、ひたすら個人を尊重する方向に舵をとられてきた。それは戦前の過度な全体主義を考えると結構なことであるが、物事は得てして行き過ぎることがあるものだ。個人の権利、個性を尊重する戦後の教育も数十年が経過し、親子二代目のサイクルに突入すると大きな弊害を生むことになる。家や地域、社会、国家といった、周りのことはあまり顧みず、自分たちだけの幸せをコソコソと追い求める人々が増えてくる。自分の車の中さえきれいになればいい、と車窓から平気でゴミを放り投げる。他人の不幸(災害など)には異常な興味と関心を示すが、実は面白がっているだけで決して自ら援助の手をさしのべようとはしない。このような人は自分に何か不都合なことがあると決まって外(他者や社会)へキバを向けていく・・。このように利己的で自分中心の人が増えてきたのだ。これは、やはり戦後の個人重視教育の行き過ぎた姿ではあるまいか。さらに豊富な物に囲まれ、世の中が全体(繋がり)で生きる、という感覚が希薄となり、人と人との絆、こころのつながりを実感しながら支え合って生きる経験がし難くなった。そして行き着く所は孤独である。人々は慰めを求めてバーチャルや携帯やネットの世界に走る・・。しかし、世渡り不器用な者は「負け組」と烙印され、社会から疎外されていく。そして追いつめられた時、キバを剥くのだ。
自分も大切、他者(全体)も大切に
 一人一人の個人の権利、個性や自主性というものを大事にすることは無論大切である。それが自分のみ、という自己中心の方向へ暴走しないよう、人と人との繋がり、皆で一緒に生きる、共に助け合う、ということの大切さをしっかりと教えていくことが絶対に必要である。
 幼稚園では行事の度にクラス全体が一つになっていろいろな課題(合奏やダンスなど)に取り組む。子供達はその体験の中で仲間と力を合わせ合うことや共に生きること、そして他者(仲間)の大切さを学んでいく。